伯耆国「大山開山1300年祭」とは

鳥取県の名峰「大山」が2018年に開山1300年を迎えるにあたり、
大山山麓地域の自治体、観光、経済団体等官民が一体となって、
伯耆国「大山開山1300年祭」を展開します。
(資料リンク参照)

  資料(pdf)
大山夏山開き祭 たいまつ行列
大山夏山開き祭 たいまつ行列

大山寺の開創

大山寺の開創は西暦700年代。出雲国風土記、日本書紀よりも古い歴史を持っています。

600年代
六〇七年 奈良法隆寺
700年代
七一八年 大山寺 七二〇年 日本書紀 七三三年 出雲国風土記 七五九年 万葉集 七八八年 比叡山延暦寺
800年代
八一六年 高野山金剛峯寺
900年代
九一九年 太宰府天満宮

大山寺にまつわる歴史

山号・角盤山

山号・角盤山

さんごう・かくばんさん
「大山寺縁起」によると、“天空はるかかなたの兜率天の角が欠けて大きな盤石が地上に落ちてきた。それは3つに割れて、ひとつは熊野山(和歌山県)になり、ひとつは、金峰山(奈良県吉野)になり、ひとつが大山になった。これにより、この山を角盤山(かくばんざん)と名づけられた。”大山寺は、山岳信仰の対象となる霊山大山に早くから山岳修行僧が入り「修行の山」として全国に知られました。
権現号・大智明権現

権現号・大智明権現

ごんげんごう・だいちみょうごんげん
平安時代、村上天皇より大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とする みことのりが下され、御本尊を本殿権現社(現在の大神山神社「奥宮」)に奉り、大智明権現というようになりました。神仏習合が明治はじめまで続いていましが、神仏分離の政策により別けられました。
阿弥陀堂

阿弥陀堂

あみだどう
「引声の阿弥陀経」の修行の道場として常行三昧堂という二十四間四面の大きな御堂が建設されましたが、亨禄2年(1529年)大洪水の際流出し、天文21年(1552年)、その残木によって、五間四面と縮尺された現在の御堂が再建されました。中に安置されている木造の阿弥陀如来は、御堂共、重要文化財に指定されています。
旧境内の歴史的遺産

旧境内の歴史的遺産

きゅうけいだいのれきしてきいさん
大山寺旧境内には、国指定重要文化財の大山寺阿弥陀堂、大神山神社奥宮、末社下山神社などの近世以前の建物が残り、廃絶した私院(僧坊)跡にも、石垣、土塁、参道なども良好に残っています。
僧兵

僧兵

そうへい
戦国時代の末世になり、世が乱れ至る所に騒動が発生、寺院も兵力を用いなければ保護することができなくなりました。大山寺も僧兵を蓄え強力な勢力を誇っていました。元弘3年(1333年)。大山の別当職にあった信濃坊源盛は、兄名和長年公が後後醍醐天皇を奉じて船上山に立てこもった際、兄の義挙を助け、大山の僧兵7百余騎を従えて船上山で王事に努めたといわれています。最盛期には3000人もの僧兵が居たとされます。
寺領三千石

寺領三千石

じりょうさんぜんごく
近世(慶長年間:1600年初期)の大山寺は、幕府から寺領三千石を安堵され、西楽院を本坊として、南光院、西明院、中門院とその僧坊を支配する一山三院四十二坊の体制が確立しました。そして、牛馬の守護神や祖霊神の信仰と結びついて発展し、近世後期には、信仰圏を山陽・四国北部にまで拡大して隆盛を誇りました。
神仏分離・廃仏毀釈

神仏分離・廃仏毀釈

しんぶつぶんり・はいぶつきしゃく
明治初年(1868年)、神と仏とを別々に祀れという、所謂 神仏分離の政令が出され開山以来1200年の間、御本尊を祀っていた本殿であったが、寺領を失った大山寺は、明治8年(1875年)に寺号廃絶のうえ、大智明権現社が大神山神社奥宮に定められました。これにより大山寺一山は急激に勢力を失っていきました。
昭和の火災

昭和の火災

しょうわのかさい
明治36年(1903年)大山寺号復興。しかし、昭和3年(1928年)に再び火災を起こし、仮本堂は焼失し、以来二十年の歳月を経て、昭和26年(1951年)に再建され現在の本堂を見ることになりました。
権現号・大智明権現

権現号・大智明権現

ごんげんごう・だいちみょうごんげん
平安時代、村上天皇より大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とする みことのりが下され、御本尊を本殿権現社(現在の大神山神社「奥宮」)に奉り、大智明権現というようになりました。神仏習合が明治はじめまで続いていましが、神仏分離の政策により別けられました。
旧境内の歴史的遺産

旧境内の歴史的遺産

きゅうけいだいのれきしてきいさん
大山寺旧境内には、国指定重要文化財の大山寺阿弥陀堂、大神山神社奥宮、末社下山神社などの近世以前の建物が残り、廃絶した私院(僧坊)跡にも、石垣、土塁、参道なども良好に残っています。
寺領三千石

寺領三千石

じりょうさんぜんごく
近世(慶長年間:1600年初期)の大山寺は、幕府から寺領三千石を安堵され、西楽院を本坊として、南光院、西明院、中門院とその僧坊を支配する一山三院四十二坊の体制が確立しました。そして、牛馬の守護神や祖霊神の信仰と結びついて発展し、近世後期には、信仰圏を山陽・四国北部にまで拡大して隆盛を誇りました。
昭和の火災

昭和の火災

しょうわのかさい
明治36年(1903年)大山寺号復興。しかし、昭和3年(1928年)に再び火災を起こし、仮本堂は焼失し、以来二十年の歳月を経て、昭和26年(1951年)に再建され現在の本堂を見ることになりました。
大山道(横手道)
大山道(横手道)

信仰と結びついた全国唯一の牛馬市

地蔵菩薩が生きとし生けるものすべてを救う仏さまであることから、平安時代に大山寺の高僧、基好(きこう)上人が、牛馬安全を祈願する守り札を配るとともに、山の中腹に広がる牧野で牛馬の放牧も奨励しました。こうして大山の「牛馬信仰」が広まって行きました。平安時代の説話集『今昔物語集』からは、遠方からの参詣者が牛馬に供物・荷物を運搬させていたことがわかります。生計の柱である農耕に欠かせない牛馬の飼育でしたので、人々は牛馬を曳き連れて大山寺に参って守り札をいただき、牛馬にも「利生水」を飲ませてその延命を祈りました。さらに守り札は牛舎の柱に貼って安全を祈り続けました。
牛馬の育成に適した大山山麓の牧野で育った体格の良い放牧牛は参詣者の注意をひき、また、参詣者が曳き連れてきた牛馬もあって大山寺の春祭りなどに牛くらべ、馬くらべが開かれました。これが発端となって、鎌倉時代以降、次第に牛馬の交換や売買が盛んに行われ、やがて市に発展していったと伝わっています。

牛馬市

江戸時代中頃になると、大山寺が積極的に牛馬市の経営に乗り出し、市は大山寺境内の下にある「博労座(ばくろうざ)」で春祭りに開かれることになりました。この、寺の庇護のもとにという特徴が、信仰が育んだ全国唯一の「大山牛馬市」とされる理由です。やがて祭日以外にも市が立ち始め、西日本各地から多くの人や牛馬が集まるようになり、やがて日本三大牛馬市のひとつと称されるほど隆盛を極めました。そのようすは、歌川広重の作と伝わる扇絵にもいきいきと描かれています。また、その頃から売買が成立した祝い酒の場で歌われた「博労歌」にも「博労さんならここらが勝負、花の大山博労座、西の番所は備前か備中、東の番所は但馬の牛か、中は出雲か伯耆の国か、隠岐の国から牛積んだ船は淀江の浜に着く」と各地から市に集まる賑わい振りが謡われています。とくに足腰の強さで人気の高かった隠岐の牛が着くと、淀江の港には茶店が並び、見物人や牛を商う博労たちで活気に満ちました。牛馬市は、大山寺の手を離れた明治維新以降も地域の経済を支え、明治中頃には年5回まで市が増えて、ついには年間1万頭以上の牛馬が商われる国内最大の牛馬市にまで発展しました。

一方で、明治政府が食用牛増産のため輸入雑種牛との交配を奨励したものの、交配牛の品質が不評だったことなどから、県内の牛の頭数は急激に減少し農家の生計を圧迫しました。これに危機感を抱いた鳥取県が優れた和牛を復活させようと、牛馬市で商われた県産牛を中心として、大正9年に全国に先駆けて登録事業を開始しました。その後「大山牛馬市」は、鉄道の発達などの影響で昭和12年の春にその幕を閉じますが、登録事業はその後も和牛(肉牛)の品種改良に大いに活用されて、今、世界が注目する「和牛」誕生へのいしずえとなりました。

宝牛
宝牛
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