信仰と結びついた全国唯一の牛馬市

地蔵菩薩が生きとし生けるものすべてを救う仏さまであることから、平安時代に大山寺の高僧、基好(きこう)上人が、牛馬安全を祈願する守り札を配るとともに、山の中腹に広がる牧野で牛馬の放牧も奨励しました。こうして大山の「牛馬信仰」が広まって行きました。平安時代の説話集『今昔物語集』からは、遠方からの参詣者が牛馬に供物・荷物を運搬させていたことがわかります。生計の柱である農耕に欠かせない牛馬の飼育でしたので、人々は牛馬を曳き連れて大山寺に参って守り札をいただき、牛馬にも「利生水」を飲ませてその延命を祈りました。さらに守り札は牛舎の柱に貼って安全を祈り続けました。
牛馬の育成に適した大山山麓の牧野で育った体格の良い放牧牛は参詣者の注意をひき、また、参詣者が曳き連れてきた牛馬もあって大山寺の春祭りなどに牛くらべ、馬くらべが開かれました。これが発端となって、鎌倉時代以降、次第に牛馬の交換や売買が盛んに行われ、やがて市に発展していったと伝わっています。

牛馬市

江戸時代中頃になると、大山寺が積極的に牛馬市の経営に乗り出し、市は大山寺境内の下にある「博労座(ばくろうざ)」で春祭りに開かれることになりました。この、寺の庇護のもとにという特徴が、信仰が育んだ全国唯一の「大山牛馬市」とされる理由です。やがて祭日以外にも市が立ち始め、西日本各地から多くの人や牛馬が集まるようになり、やがて日本三大牛馬市のひとつと称されるほど隆盛を極めました。そのようすは、歌川広重の作と伝わる扇絵にもいきいきと描かれています。また、その頃から売買が成立した祝い酒の場で歌われた「博労歌」にも「博労さんならここらが勝負、花の大山博労座、西の番所は備前か備中、東の番所は但馬の牛か、中は出雲か伯耆の国か、隠岐の国から牛積んだ船は淀江の浜に着く」と各地から市に集まる賑わい振りが謡われています。とくに足腰の強さで人気の高かった隠岐の牛が着くと、淀江の港には茶店が並び、見物人や牛を商う博労たちで活気に満ちました。牛馬市は、大山寺の手を離れた明治維新以降も地域の経済を支え、明治中頃には年5回まで市が増えて、ついには年間1万頭以上の牛馬が商われる国内最大の牛馬市にまで発展しました。

一方で、明治政府が食用牛増産のため輸入雑種牛との交配を奨励したものの、交配牛の品質が不評だったことなどから、県内の牛の頭数は急激に減少し農家の生計を圧迫しました。これに危機感を抱いた鳥取県が優れた和牛を復活させようと、牛馬市で商われた県産牛を中心として、大正9年に全国に先駆けて登録事業を開始しました。その後「大山牛馬市」は、鉄道の発達などの影響で昭和12年の春にその幕を閉じますが、登録事業はその後も和牛(肉牛)の品種改良に大いに活用されて、今、世界が注目する「和牛」誕生へのいしずえとなりました。

宝牛
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