大山寺の開創と歴史

大山寺の開創

大山寺の開創は西暦700年代。出雲国風土記、日本書紀よりも古い歴史を持っています。

600年代
六〇七年 奈良法隆寺
700年代
七一八年 大山寺 七二〇年 日本書紀 七三三年 出雲国風土記 七五九年 万葉集 七八八年 比叡山延暦寺
800年代
八一六年 高野山金剛峯寺
900年代
九一九年 太宰府天満宮

大山寺にまつわる歴史

山号・角磐山

山号・角磐山

さんごう・かくばんさん
「大山寺縁起」によると、“天空はるかかなたの兜率天の角が欠けて大きな盤石が地上に落ちてきた。それは3つに割れて、ひとつは熊野山(和歌山県)になり、ひとつは、金峰山(奈良県吉野)になり、ひとつが大山になった。これにより、この山を角磐山(かくばんざん)と名づけられた。”大山寺は、山岳信仰の対象となる霊山大山に早くから山岳修行僧が入り「修行の山」として全国に知られました。
権現号・大智明権現

権現号・大智明権現

ごんげんごう・だいちみょうごんげん
平安時代、村上天皇より大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とする みことのりが下され、御本尊を本殿権現社(現在の大神山神社「奥宮」)に奉り、大智明権現というようになりました。神仏習合が明治はじめまで続いていましが、神仏分離の政策により別けられました。
阿弥陀堂

阿弥陀堂

あみだどう
「引声の阿弥陀経」の修行の道場として常行三昧堂という二十四間四面の大きな御堂が建設されましたが、亨禄2年(1529年)大洪水の際流出し、天文21年(1552年)、その残木によって、五間四面と縮尺された現在の御堂が再建されました。中に安置されている木造の阿弥陀如来は、御堂共、重要文化財に指定されています。
旧境内の歴史的遺産

旧境内の歴史的遺産

きゅうけいだいのれきしてきいさん
大山寺旧境内には、国指定重要文化財の大山寺阿弥陀堂、大神山神社奥宮、末社下山神社などの近世以前の建物が残り、廃絶した私院(僧坊)跡にも、石垣、土塁、参道なども良好に残っています。
僧兵

僧兵

そうへい
戦国時代の末世になり、世が乱れ至る所に騒動が発生、寺院も兵力を用いなければ保護することができなくなりました。大山寺も僧兵を蓄え強力な勢力を誇っていました。元弘3年(1333年)。大山の別当職にあった信濃坊源盛は、兄名和長年公が後後醍醐天皇を奉じて船上山に立てこもった際、兄の義挙を助け、大山の僧兵7百余騎を従えて船上山で王事に努めたといわれています。最盛期には3000人もの僧兵が居たとされます。
寺領三千石

寺領三千石

じりょうさんぜんごく
近世(慶長年間:1600年初期)の大山寺は、幕府から寺領三千石を安堵され、西楽院を本坊として、南光院、西明院、中門院とその僧坊を支配する一山三院四十二坊の体制が確立しました。そして、牛馬の守護神や祖霊神の信仰と結びついて発展し、近世後期には、信仰圏を山陽・四国北部にまで拡大して隆盛を誇りました。
神仏分離・廃仏毀釈

神仏分離・廃仏毀釈

しんぶつぶんり・はいぶつきしゃく
明治初年(1868年)、神と仏とを別々に祀れという、所謂 神仏分離の政令が出され開山以来1200年の間、御本尊を祀っていた本殿であったが、寺領を失った大山寺は、明治8年(1875年)に寺号廃絶のうえ、大智明権現社が大神山神社奥宮に定められました。これにより大山寺一山は急激に勢力を失っていきました。
昭和の火災

昭和の火災

しょうわのかさい
明治36年(1903年)大山寺号復興。しかし、昭和3年(1928年)に再び火災を起こし、仮本堂は焼失し、以来二十年の歳月を経て、昭和26年(1951年)に再建され現在の本堂を見ることになりました。
権現号・大智明権現

権現号・大智明権現

ごんげんごう・だいちみょうごんげん
平安時代、村上天皇より大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とする みことのりが下され、御本尊を本殿権現社(現在の大神山神社「奥宮」)に奉り、大智明権現というようになりました。神仏習合が明治はじめまで続いていましが、神仏分離の政策により別けられました。
旧境内の歴史的遺産

旧境内の歴史的遺産

きゅうけいだいのれきしてきいさん
大山寺旧境内には、国指定重要文化財の大山寺阿弥陀堂、大神山神社奥宮、末社下山神社などの近世以前の建物が残り、廃絶した私院(僧坊)跡にも、石垣、土塁、参道なども良好に残っています。
寺領三千石

寺領三千石

じりょうさんぜんごく
近世(慶長年間:1600年初期)の大山寺は、幕府から寺領三千石を安堵され、西楽院を本坊として、南光院、西明院、中門院とその僧坊を支配する一山三院四十二坊の体制が確立しました。そして、牛馬の守護神や祖霊神の信仰と結びついて発展し、近世後期には、信仰圏を山陽・四国北部にまで拡大して隆盛を誇りました。
昭和の火災

昭和の火災

しょうわのかさい
明治36年(1903年)大山寺号復興。しかし、昭和3年(1928年)に再び火災を起こし、仮本堂は焼失し、以来二十年の歳月を経て、昭和26年(1951年)に再建され現在の本堂を見ることになりました。
大山道(横手道)
大山道(横手道)
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