ぶらり、大山 〜大山の不思議と素敵を語る〜
[第11回]大山のたいまつ行列
あらためて見つめてみると
大山開山1300年祭を記念して、昨年に続いて今年も秋に開催されます。本来は9月30日に予定されていましたが、台風の影響で11月11日(日)の開催となりました。
開催概要はコチラをご覧ください →
[秋のたいまつ行列~継承・次の100年へ~]
大山のたいまつ行列は、本来は夏山開き祭の前夜祭として6月の第1土曜日に開催されます。戦後70年余りにわたって夏山登山の安全祈願"イベント"として継続されてきましたが、近年は大好評で観客もいれると3千人~5千人の参加者となりました。漆黒の森を流れるたいまつ2000本の炎は日常では見ることのできない幻想風景を作り出します。不思議なまでに惹きつけられる…、その魅力をすべての参加者が感じとることでしょう。大山の神と一体になれたかのような、心地よい安心感があるのかもしれません。"イベント"から"神事"への転換が無意識のうちに行われている。そんな印象です。
たいまつ行列の始まり
はじまりは戦後間もない頃、大山を愛する登山家でもあった織田収さんらが秋田県での登山大会で行われていたたいまつ行列に感動し、大山での開催を思いついたことが始まりということです。織田収さんは明治30年に米子市で生まれ、昭和63年に91歳で「鬼籍」に入るまで新聞記者や鳥取県議会議員、ラジオ山陰(現山陰放送)、大山国立公園協会会長、県スキー連盟会長など、地域の政治・経済・文化・スポーツなどをリードした方として知られています。大山の参道沿いには歌碑が残されています。
「山のエスプリは山頂にあつまる 神はここにくだり 人はここにのぼる」
大山のたいまつ行列は大山を愛した先人・織田収さんを供養し、そして称える行事なのかもしれません。
大山は火の神(カグツチ:火之迦具土神)の信仰があった
古くは、大山は火の神・カグツチを祀る山と認識されていました。約1300年前、723年に成立した「出雲風土記」では大山を次のように記述しています。(国引き神話と云われるところ)
「三穂之椅 接引綱夜見島 固堅立加志者有伯耆国火神岳是也」、わかり易く翻訳すると、「三穂之埼(美保の埼)。接(ツナ)ぎ引ける綱は夜見島。固堅(カタメ)立てし加志(杭のこと)は伯耆国に有る火神岳是なり。」
火神岳は大山のこと。この当時は大山を火の神(カグツチ)を祀る山として認識していたということです。当時から遥かな年月が過ぎましたが、「先人の信仰が熟成され、1300年の時を経て、"火の神"を称える"神事"として蘇った。」としたら、このたいまつ行列の意味するところが見えてくるようにも思います。先人たちの大山へのメッセージを共有できたような、そんな気分にもなりますね。そうなると、単なるイベント事から神(大山)が中心に坐す歴史的な"神事"へと昇華したことになります。大山の神である火の神を称える神事(すなわち大山を称えること)、大山を愛した先人(私たちの祖先)を称える神事、そして私たちの登山の安全を祈る神事という位置づけにできれば、たいまつ行列への想いはさらに強くなることと思います。
こんな見方も~火の神は日(太陽)の神~
風土記が書かれた1300年前の出雲国府から見ると大山は東にあり、まさに日(太陽)が昇る山という存在でした。火の神は"日の神"のことで、太陽神(天照大神)を重ねていたのではとの説もあるようです。大山の西麓には日下(くさか)という地名もありますが、これは太陽(日)が昇る山の下(ふもと)という意味です。このあたりに、火と日のつながりを感じとることができます。
この説を受けて、ストーリーを展開すると・・・
大山の真西に母塚山(はつかさん)が鳥取(伯耆国)、島根県(出雲国)境にありますが、この山は火の神・カグツチの母親であるイザナミを祀るお墓・比婆山とされています。母・イザナミ(母塚山)は子・カグツチ(大山)を見守るように、カグツチ(大山)はイザナミ(母塚山)に頑張っている姿を見せるように、東西で母子が向きあっているようです。
その位置関係もあって、春分と秋分の年に二日だけ母であるイザナミは山頂から昇る子のカグツチ(日・太陽=火)に出会うことができます。大山の神とされていた"火"と"太陽"、私たちにとっては欠くことのできない根源的な存在。そう考えると"たいまつ行列"が大山の最高の神事に思えてきますね。
BUNAX